東日本大震災から12年が経ち、13年目の夜明けを迎えました。
今日も平凡な1日が待っています。1日1日、平凡に過ぎていきます。
日常あるいは平凡な日々です。
日本の各地で、災害や事故が起きる。世界のさまざまな場所で紛争や災害が起きている。
それでも私の1日は、また平凡に過ぎていきます。
震災から12年が経って平穏は戻っていないのですが、平凡にはなってきたな、と思います。
「レジリエンス」から「ネガティブ・ケイパビリティ」へ
震災を忘れないために続けることは、さまざまな勉強です。
この1年で新しい言葉を聞きました。「ネガティブ・ケイパビリティ」です。
これまで、災害から生き延びていくために必要な力の一つは「レジリエンス」だと思っていました。
この似て非なるものを知っておく必要があるなと思いました。
レジリエンス(Resilience)とは
レジリエンスは「回復力」「弾性(しなやかさ)」を意味する英単語です。
「レジリエントな」と形容される人は、困難な問題、危機的な状況、ストレスといった要素に遭遇しても、すぐに立ち直ることができます。
どんな困難なことが起きたときでも、柔らかく簡単に壊れるのでもなく、じっと耐えて突然ポキッと折れるのでもありません。
よく例えられるように、しなやかな竹のように元に戻ることができることができる力です。
ネガティブ・ケイパビリティ(Negative Capability)とは
レジリエンスに連なる考え方として、「ネガティブ・ケイパビリティ」というのが出てきました。
ネガティブ・ケイパビリティ(負の能力)とは、「どうにも答えの出ない、どうにも対処のしようのない事態に耐える能力」あるいは「性急に証明や理由を求めずに、不誠実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」です。
レジリエンスが元に戻ろうとする力であるならば、ネガティブ・ケイパビリティはきついストレス、厳しい状況や環境の中にただよう力です。
踏みとどまるとか、耐え忍ぶとかよりも、浮いて漂うというイメージです。

人生のしんどさを受け入れて生きる
人生にはしんどいときがあります。押しては返す波のようです。
押し寄せてくる津波をどう見るか、どう感じるか、どう考えるのか、それはその人次第です。
水に溺れたときに、浮き上がってくるのがレジリエンスです。波を受け止めて、受け流して、やがて元に戻ることができる力です。
水に溺れたときに、そのまま水に漂っているのがネガティブ・ケイパビリティです。波をのまれて、もまれて、やがて浮き上がってくる力です。
自分の人生のしんどさから上に戻ろうとするのではなく、そのまま低いままでただよう生き方をするということです。
自己○○に当てはめようとすると
よく、自己肯定感とか自己効力感とか、自己○○という言葉があります。日本人好きですよね。
(1)自己肯定(self-affirmation)する人は、どんな波でも受け止められる。
(2)自己否定(self-denail)する人は、こんな波は受け入れられない。
(3)自己受容(self-acceptance)する人は、このぐらいの波なら大丈夫だろう。
(4)自己許容(self-tolerance)する人は、この波とともに生きていこう。
こんなふうに例えたとすると、レジリエンスは自己受容、ネガティブ・ケイパビリティは自己許容といったところでしょうか。受容と許容は微妙に違います。
レジリエンスが高ければ、力尽きることなく、しなやかに水面に戻ってきます。ネガティブ・ケイパビリティが高ければ、そのまま波に飲まれたまま漂っていけます。

津波と同じように、情報の波に飲み込まれる
時代の変化が速すぎる現代においては、レジリエンスよりもネガティブ・ケイパビリティのほうが有効なのかもしれません。
世界は情報の激流に溺れています。文章よりも画像よりも、動画が中心の世の中です。本よりも、まとめ記事よりも、最初の見出し15.5文字で判断される社会です。
「ブログ」や「Twitter」のようなテキスト中心のSNSよりも、「Instagram」や「Pintarest」のような画像メインのSNSが増えてきて、今では「Youtube」や「Tik tok」のようなショート動画を通したSNSが当たり前になってきました。
「紙の本」もだいぶ減りました。新聞や雑誌も同様です。代わりにまとめ記事、キュレーションサービスといったものが出てきました。「Naver」は消えてしまいましたが、「SmartNews」や「ANNTENA」といったものがあります。
Yahoo!JAPANのヤフトピの見出し文字数は、当初は11文字で、2001年に13.5文字へ、2022年に15.5文字に増えてきました。中身の記事を読まずに見出しだけで判断する人が増え、より正確に理解されるようになるために増やしてきたとのことです。

「震災から何年が経った」ではなく「つぎの災害まであと何年か」
この12年で、放射線教育はどれだけ進んだでしょうか。高校生だけでなく、中学生、小学生にまで放射線のことを教えようとして、果たしてどれだけの理解が進んだのか。
福島第一原発の処理水の問題は、風評被害を起こさないところまで議論されたのでしょうか。理解されたのでしょうか。トリチウムとは三重水素だとどれだけの人が分かっているのでしょうか。
首都直下型地震や南海トラフ巨大地震は、30年以内に70%の確率で起こると言い出して、何年経ちましたか。どれだけの備えが済んでいますか。首都機能は?発電所は?避難所は?
あふれる情報の波にただよいながら、正しい情報・必要な情報を集めてつなぎ合わせて、備えていかなくてはいけません。
吉永小百合さんが「戦後」というのがずっと続いてほしいと語っていました。同感です。
ただ、震災については、いつまたどこで起こるか分からないという、人間の努力だけではどうにもならないという、緊張感を常に持ち続けなくてはならないのです。
平凡は決して平穏ではない。いまやらなくてはいけないことを、やはり今やらねばならないのです。13年目を迎えて、改めて自分の尻を叩きたい思いでした。