【アドラー心理学】ほめない教育、叱らない教育を教室で実践していく

 学級担任として

教諭になって11年目、今年は10年経験者研修の年です。(今は中堅教諭等資質向上研修に名前が変わりました。)

今日は校長先生と面談しました。

理科の授業について、話していく中で自分の課題が見えた気がしました。

一人で悶々と「自分の課題ってなんだ~」と考え込むよりも、誰かと話してみるほうがはるかに有効だと改めて思いました。

(忙しさにかまけてゼロ秒思考がストップしてしまっています。)

  

学級経営方針「ほめない」は理解してもらえない

学級経営についても話したのですが、どうもうまく伝わりませんでした。

校長T>「学級で何か気を付けていることはありますか。」

わたし>「教室ではほめないようにしています。」

校長T>「それが良いときもあれば、悪いときもあるね。」

と、そのあと切々とほめることについて諭されました。

  

わたし>「生徒の変容を見つけようとしていないわけではありません。」

などと反論を試みましたが、うまく説明できません。

校長T>「自分の思いをうまく伝えられないというのも、先生の課題ですね。」

と言われてしまいました。

ショボーン…。

  

アドラー心理学における「ほめる」ことの解釈

アドラー心理学についての私なりの解釈ですが、

先生が生徒をほめることによって、ほめられる生徒群 vs ほめられない生徒群という対立構造ができてしまいます。

この対立構造を生まないために、アドラー心理学では「ほめる」ことをしません。

ほめられる生徒の優越感を助長したり、ほめられるために行動するという誤った動機づけを強化しないようにしています。

ほめられない生徒が、ほめられないから他の方法で注目を集めようという第2段階に悪化していくのを防いでいます。

第2段階とは叱られることです。ほめられるような行為ができない生徒は、叱られることで先生の注目を集めようとします。そして意識的に、あるいは無意識のうちに悪いことをしてしまうわけです。

  

先生は何をするのか?

では代わりに先生は何をするのかといえば『勇気づけ』です。

「ほめる」代わりに『勇気づける』のです。

しかし、私はまだこの『勇気づけ』について、他の人に説明するだけの理解をしていません。

それは、生徒が特別な何かをしたときに取り上げるのではなく、ふだんの細かな行為に気付きを与えることだと思っています。

具体的に何をするのかと言えば「感謝」と「尊敬」です。

勇気づける=感謝をする

「感謝」は分かりやすいですね。「ありがとう」と言えばいいのです。「話を聞いてくれてありがとう」「掃除をがんばってくれてありがとう」

当たり前のことを当たり前にやっていることが素晴らしいことなのだと価値を与えるわけです。生徒は自分は感謝される存在なんだと、自分を受容することができます。

気をつけなくてはいけないのは、先生に感謝されるためにやっているのではない、という行為を見つけることです。生徒の言動をよく観察していないといけません。

勇気づける=関心をもつ

「尊敬」は分かりづらいです。生徒に「尊敬してます」と言っても生徒は意味不明です。尊敬するを言い換えると「関心をもつ」です。

サッカーをして遊んでいる生徒に「先生も混ぜてよ」と頑張ります。応援席でもいいでしょう。Youtubeやゲームの話で盛り上がっていれば「へーそういうのが流行っているんだね」と会話に混ざります。

生徒とともにいることで、自然とその凄さが分かってきます。「ナイスシュート!」とか「詳しいねー!」と尊敬を示す言葉が自然と出てきます。生徒のやっていることに関心を持てば、尊敬できるところが見えてくるのです。

  

アドラー心理学を勉強して学級で実践する

先日は、生徒に「貢献感」について話をしました。生徒はまだ分かっていないかもしれません。

でも学級の中で、特権階級を目標に競争に駆り立てるようなことはしたくありません。

私がアドラーを勉強していると言ったら、「いいですね」と言ってくれた先生もいました。

私がアドラーを理解すればするほど、生徒にも先生方にも分かってもらえるのかもしれません。

難しいですが、やっていくしかいないですよね。

誰も分かってくれなくても、自分から始めるしかないのです。