【初任研】33「道徳科の授業研究」へのコメント

 初任者研修

初任研担当として、初任者の先生方の報告書にコメントを書いています。

指導の先生とのやり取りや、教室での実践を通して、皆さんが日々たくさんの学びを積み重ねている様子に、励まされる思いです。

この記事では、報告書には書ききれないような視点から、わたし自身の経験も交えてメッセージをお届けしています。

少し立ち止まって考えたいとき、ふとヒントが欲しくなったときに、気軽に読んでいただけたらうれしいです。

「道徳科の授業研究」へのコメント

道徳で大事なことは、発問であり、伝えたい価値であり、互いの違いを認めあい、許容することです。教科書はきっかけです。

できたら、その物語に似たできごとを生徒の生活の中から見つけましょう。「このあいだクラスでこんなことがあったよね。」のようにです。そうすると、生徒は他人事ではなく自分事として自分の価値観に向き合おうとします。

正解はありませんが、そのときそのときの、自分なりの正解を決めさせ、共有していくことで、新たな気づきが生まれていきます。先生も自分と向き合ってみましょう。

道徳は基本的に担任が行うので、班の作り方、司会発表などのルールを決めておくことができます。自分のスタイルができてくるといいですね。もちろん、学年・学校で統一してもいいでしょう。

担任以外が道徳をやることも、生徒にとっては新しい学びの機会になります。

ICT、ロイロノートを何のために使うのか。そこを忘れないようにしましょう。タブレットがなくても授業ができるようにしておいてください。

   

コメントの背景

このコメントを書いた背景、私の思いや考えについて解説します。

「教科書を教える」のではなく「価値を探す」

この「発問であり、伝えたい価値であり、互いの違いを認めあい、許容すること」が、道徳授業の核心だと思っています。

道徳の授業で本当に大事なのは、教科書に書かれた話を読むことではなく、
「どんな問いを立てるか」、そして「子どもたちと何を共有したいか」です。

教科書は、きっかけにすぎません。物語の登場人物の行動よりも、その奥にある価値をどう引き出すかが勝負です。

  

「このあいだクラスでこんなことがあったよね」

「このあいだクラスでこんなことがあったよね。」は、道徳を「生活と地続きの学びにするための一声です。

物語の中の誰かの話ではなく、「自分たちにも似たことが起きていた」と気づくことで、子どもたちは初めて他人事から自分事へとスイッチします。

道徳教育の目的は、立派な意見を言わせることではなく、自分の価値観を見つめること。
だからこそ、教師が日常の出来事をつなげてあげることが大切です。

そのために先生は生徒の生活をよくよく見ておかなくてはいけません。クラス全員での経験でなくても、数人の経験だとしても、その子たちから許可を得ながらクラスに話すことで、クラス全体で共有するようにします。

 

「正解はない」けれど、「自分の答え」はある

「正解はありませんが、そのときそのときの、自分なりの正解を決めさせる」ことは、道徳教育の原点です。

人生の中で私たちは常に「正解のない問い」に向き合っています。
そのたびに「自分なりの答え」を出し、人と共有しながら少しずつ考えを深めていく。この「プロセスの学び」を支えるのが教師の役割です。

そして忘れてほしくないことが、教師自身もまた、毎回の授業で自分の道徳観と向き合う存在であることです。自分と向き合う、自分も学ぶ、先生のその謙虚な姿勢が、生徒が安心して学べる世界(教室)へつなげるのです。

  

授業づくりは「教師の個性」を映すもの

先ほど書いたように、道徳のかけらは生徒の日常にあります。その生徒の日常を一番に見ているのは担任です。担任だからこそできる雰囲気づくり・問いかけ・まとめ方があります。

司会や班構成などの運営スタイルも、やがてその先生の「型」になります。それが積み重なることで、子どもたちは安心して考え、語り合える教室をつくれるようになります。

  

一方で、道徳の授業を担任に一任するのは教材研究や時数的にも負担ではないか?さまざまな先生から学んだほうがいいのではないか?という考えもあります。

「学年や学校で統一してもよい」と書いたのは、初任の先生にいろいろな先生の道徳の「型」を見てもらいたいとも思うからです。

 

道徳に「本質的な授業力」があらわれる

ICTについても同様です。ロイロノートやGoogleやMicrosoftなどの便利なツールも安定して使えるようになってきましたが、それを使うこと自体が目的になってはいけないという戒めです。

事後研をやったときに、道徳的価値に迫ったかなどの深い話ではなく、ICTの使い方について盛り上がることがあります。

道徳の授業は本来、人と人との対話、心の触れ合いが中心です。タブレットは、その学びを支える「道具」にすぎません。

 

テクノロジーに頼らなくても成立する「本質的な授業力」を持ってほしいと思います。

道徳の授業は、教科書を読む時間ではなく、子どもの心と向き合う時間。そして、教師自身が自分の価値観を問い直す時間でもあります。

授業のスタイルやICTの使い方は、それを支える手段にすぎません。
大切なのは、「子どもが自分の価値観に出会う瞬間」をどうつくるか。
そのための「きっかけ」を仕掛けられる教師、見つけられる教師でありたいと思います。